夕張炭鉱資料館。
冬の日は暮れるのが早い。
閉館時間を過ぎた館内は静かで、展示室の照明も半分ほど落とされていた。
休憩室ではシノが鍋をかき混ぜている。
「今日はクリームシチュー。」
蓋を開けると、湯気と一緒に優しい匂いが広がった。
「寒い日は温まるからね。」
ノブが椅子に腰掛けながら嬉しそうに笑う。
「シノのシチュー好きなんだよね。」
「今日はパンも焼いたぞ。」
「やった~。」
ノブは子どものように笑う。
そこへ。
「ただいまー!」
勢いよくハルが飛び込んできた。
「おかえり。」
シノが笑って迎える。
「手、冷えてるだろ。」
「先にストーブあたって。」
「うん!」
ハルはストーブの前へ座る。
両手を伸ばしながら、
「あったか~い。」
と目を細めた。
その時だった。
館内の照明が一斉に消えた。
停電。
部屋は暗闇に包まれる。
ストーブの赤い火だけが揺れていた。
誰も慌てない。
「ブレーカーかなぁ。」
ノブがのんびり呟く。
「俺見てくる。」
シノが立ち上がろうとした。
しかし。
「……ハル?」
返事がない。
ストーブの灯りの近く。
ハルは膝を抱え、小さく丸くなっていた。
肩が震えている。
シノは足音を立てないよう近付く。
しゃがみ込み、ハルと同じ高さになる。
「ハル。」
優しい声だった。
「ここにいるよ。」
返事はない。
呼吸だけが浅く速い。
「寒い?」
小さく頷く。
「うん……。」
「急に。」
「寒くなった。」
シノはストーブへ少し薪を足す。
炎が大きくなる。
「ほら。」
「もう少しで温かくなる。」
その声は穏やかだった。
何も急かさない。
何も聞かない。
ノブも毛布を一枚持ってきて、ハルの肩へそっと掛ける。
「ありがとう。」
「ゆっくりでいいからね。」
ハルは毛布を握りしめる。
「……ごめん。」
「暗くなると。」
「思い出しちゃう。」
シノは静かに頷いた。
「そうだよね。」
「無理しなくていい。」
「ここにいるから。」
その一言だけだった。
ハルは少しだけ呼吸を整える。
「お腹も。」
「空いてきちゃって。」
「でも。」
「食べるの怖い。」
シノは首を横に振る。
「今じゃなくていいよ。」
「でも。」
立ち上がり、鍋を見ながら笑う。
「今日はいっぱい作ったから。」
「なくならない。」
「後で食べたくなったら、その時食べよう。」
「温め直せばいい。」
「何回でも。」
ハルは顔を上げた。
「……ほんと?」
「うん。」
「パンもまだ焼きたてだよ。」
「固くなる前に食べられたら嬉しいけど。」
「もし寝ちゃっても。」
「朝、また温めるから。」
シノは本当に当たり前のことのように言った。
食べられなかったことを責める気持ちは、一つもない。
ただ、
食べたいと思った時には、ちゃんと用意してある。
それだけを伝えていた。
ハルの肩から少しずつ力が抜けていく。
「……一口だけ。」
「うん。」
シノは笑顔になった。
「じゃあ、小さいお皿にするな。」
ノブも嬉しそうに頷く。
「今日はパンも小さく切ろうか。」
「それなら食べられそう?」
「うん。」
ハルは照れくさそうに笑った。
「ありがとう。」
シノは温かいシチューを少しだけ皿によそう。
熱すぎないように、何度も息を吹きかける。
「はい。」
「ゆっくり。」
ハルはスプーンで一口すくう。
口へ運ぶ。
温かい。
その瞬間。
張り詰めていたものがふっとほどけた。
涙が一粒だけ落ちる。
「……おいしい。」
「よかった。」
シノは自分のことのように微笑んだ。
「今日はたくさんあるから。」
「おかわりもある。」
「明日もある。」
「だから急がなくていい。」
ハルは何度も頷く。
ノブが穏やかに笑う。
「ここなら。」
「お腹空かないからねぇ。」
三人はゆっくりと食卓を囲んだ。
夕張の面々には、それぞれ消えない傷がある。
けれど。
温かい料理を作る人がいて。
それを一緒に食べる人がいて。
「急がなくていい」と言ってくれる人がいる。
その食卓は、ハルにとって少しずつ、「寒くて、お腹の空く場所」の記憶を書き換えていく場所になっていた。
