夜の自然棟は、時々停電する。
老朽化だとか配線だとか、理由はいろいろあるらしいが、学芸員たちはあまり気にしていなかった。
暗闇には慣れている。
むしろ死者には、その方が落ち着くことすらある。
その日も、閉館からしばらくして突然照明が落ちた。
ぶつ、と音を立てて館内が沈黙する。
「うわっ」
最初に声を上げたのは梓だった。
「真っ暗! 軍曹どこ!?」
「いる」
即答。
歴史棟側から低い声が返る。
「近い近い近い!!」
「お前が近づいてきたんだろ」
暗闇の中で軽く揉めている気配がする。
丞は小さく息を吐いた。
停電くらいで騒ぎすぎだ、と言いたげな顔をしている。
だがその時、不意に袖が引かれた。
「……誠さん」
汐音だった。
暗闇の中、白い髪だけがぼんやり浮いて見える。
腹の中の魚が淡く発光していた。
「どうした」
「少し、こちらへ」
珍しく歯切れが悪い。
丞は眉を寄せた。
「怖いのか」
「……少しだけ」
意外だった。
汐音は基本的に落ち着いている。
死んだ時の話ですら淡々としている女だ。
その彼女が、暗闇を怖がる。
丞は数秒黙ってから、
「来い」
と短く言った。
汐音の手を引く。
その手には体温が無い。
けれど、微かに湿ったホルマリンの匂いだけはした。
二人は液浸標本室へ入る。
停電用の非常灯だけが点いていて、無数のガラス瓶が青白く浮かび上がっていた。
魚類。 両生類。 小型哺乳類。 胎児標本。
静かな死が並んでいる。
汐音はその光景を見回し、小さく息を吐いた。
「……落ち着きます」
「自分の部屋みたいなものだからな」
「ふふ」
少しだけ笑う。
丞は壁へ寄りかかった。
暗闇に慣れた右眼が、静かに汐音を映している。
片目を縫い閉じた白い顔。 薬液に満たされた身体。 腹の中を泳ぐ魚。
生きていた頃より、ずっと人間離れした姿。
けれど。
「誠さん」
「ん」
「生前の私は、ちゃんと人間に見えていましたか?」
唐突だった。
丞は目を細める。
「何だ急に」
「いえ……最近、少し分からなくなるんです」
汐音は自分の腹へ触れる。
透明な皮膚の向こうで、小魚がゆっくり尾を揺らした。
「私、昔から病院ばかりだったでしょう」
「ああ」
「薬の匂いしかしない部屋で、ずっと眠っていて」
彼女は少し俯く。
「だから今の姿の方が、むしろ自然な気がしてしまって」
静かな声だった。
悲しいというより、 長い時間をかけて沈殿した諦めに近い。
丞はしばらく答えなかった。
やがてゆっくり口を開く。
「……見えてた」
汐音が顔を上げる。
「ちゃんと、人間だった」
その言葉は不器用だった。
飾りも慰めも無い。
ただ事実を確認するみたいな声音。
「病院で寝てる時も、笑った時も、怒った時も」
丞は少し視線を逸らす。
「綺麗だったよ」
汐音の中の魚が、ふわりと浮かび上がった。
まるで水面へ向かうみたいに。
しばらくして、彼女は静かに笑う。
「……ありがとうございます」
非常灯の薄明かりの中。
死者と標本だけが並ぶ部屋で。
