自然棟の屋上は、学芸員たちしか知らない場所だった。
立入禁止。 普段は鍵が掛かっている。
けれど夏になると、時々四人はそこへ上がる。
理由は単純だった。
涼しいから。
「暑……」
梓がぐったりしている。
屋上の床へ大の字になり、鹿角をだらんと投げ出していた。
「北海道なのに暑いとか意味分かんない……」
「最近は普通に暑いぞ」
軍曹が缶コーヒーを開ける。
熊の性質のせいか、暑さにはそこまで強くないらしい。
耳が少し垂れていた。
丞は屋上フェンスへ寄りかかっている。
黒髪は夏毛になり、冬より少し短く見えた。
「誠さん平気そう」
「体温低いからな」
軍曹が言う。
「羨まし〜」
「お前は鹿だから暑いだろ」
「毛皮族みんな終わってる」
汐音だけは比較的平然としていた。
というより。
「汐音さんって暑さ感じるの?」
梓が聞く。
汐音は少し考える。
「んー……多少は?」
「曖昧」
「でも生前より楽ですねぇ」
白衣の袖を揺らしながら笑う。
「昔は夏が苦手でした。体力が持たなくて」
丞の耳が小さく動く。
その言葉だけ、敏感に反応する。
汐音は気づかないまま続けた。
「病室、暑かったんですよ。窓もあまり開けられませんでしたし」
夏の病院。
白いシーツ。 薬品の匂い。 遠くの蝉の声。
汐音は穏やかな顔で話している。
けれど丞は少し視線を逸らした。
彼だけは知っている。
その“苦手だった夏”の最後を。
梓は空気を変えるみたいに声を上げる。
「あ、流れ星!」
全員が空を見る。
夜だった。
愛館市の灯りの上に、薄い星空が広がっている。
本当に、小さな光が一瞬だけ流れた。
「見えた?」
「いや」
軍曹が即答する。
「早すぎた」
「誠さんは?」
「……見えた」
「お願い事した!?」
梓が身を乗り出す。
丞は少し黙った。
それから小さく答える。
「してない」
「えーなんで!」
「別に願うことがない」
嘘だった。
汐音は分かる。
右眼の奥で、少しだけ視界が揺れたから。
この人は願わない。
願っても戻らないことを知っているから。
代わりに、残そうとする。
失われない形へ変えようとする。
剥製みたいに。 標本みたいに。
汐音は静かに空を見る。
「私はありますよ」
ぽつりと言う。
「願い事」
梓が「なになに!?」と食いつく。
汐音は少し笑った。
「内緒です」
「ずるい!」
軍曹が缶を傾けながらぼそりと言う。
「どうせ大したことじゃないだろ」
「失礼ですねぇ」
「当たってる顔してる」
汐音は否定しない。
代わりに、そっと丞を見る。
夏の夜風が黒髪を揺らしていた。
縫い目だらけの横顔。
右だけ色の違う眼。
今も壊れそうなものを拾い集め続ける人。
汐音は静かに目を細める。
願い事なんて、本当は昔から一つしかない。
あの戦争の日。
叶わなかったもの。
「誠さん」
「ん」
「来年も、ここで夏を見ましょうね」
静かな声だった。
丞は少しだけ目を細める。
拒絶もしない。
肯定もしない。
ただ。
「……壊れなければな」
とだけ呟いた。
梓がすぐ「縁起悪!」と騒ぎ、 軍曹が「事実だろ」と返す。
いつものやり取り。
その声を聞きながら、汐音は小さく笑った。
屋上には風が吹いている。
死者たちの時間は止まったままなのに、 季節だけは、 ちゃんと流れていた。
