自然棟の屋上は、普段は立入禁止になっている。
設備点検のために使われるだけの場所だ。
だから来館者は来ない。
梓も来ない。
軍曹も滅多に来ない。
静かな場所だった。
その夜。
汐音はフェンスにもたれて街の灯りを眺めていた。
愛館市の夜景。
都会というほどではない。
けれど真っ暗でもない。
遠くに港の明かりが見える。
風が吹く。
白い髪が揺れる。
「こんなところにいたのか」
聞き慣れた声だった。
「誠さん」
丞がやって来る。
「探した」
「珍しいですね」
「梓がうるさい」
それで納得した。
きっと「汐音さんどこー?」と館内を走り回ったのだろう。
容易に想像できる。
丞は汐音の隣へ来る。
少しだけ間を空けて。
昔からそうだ。
近付きすぎない。
けれど離れすぎもしない。
「寒くないんですか」
汐音が聞く。
「寒い」
「じゃあ何で来たんですか」
「探したからだ」
理屈になっていない。
けれど丞らしい。
汐音は小さく笑った。
二人で街を見下ろす。
灯りがたくさんある。
それぞれに生活がある。
帰る場所がある。
家族がいる。
恋人がいる。
明日を生きる人たちがいる。
汐音はふと考える。
もし。
本当にもし。
二人とも死ななかったら。
どうなっていただろう。
そんなことを。
「誠さん」
「なんだ」
「後悔してますか」
丞が眉をひそめる。
「何をだ」
「色々です」
曖昧な質問だった。
だから丞もすぐには答えなかった。
しばらく夜景を見つめる。
そして。
「してる」
と言った。
汐音は少し驚いた。
否定すると思っていた。
「そうですか」
「ああ」
声は静かだった。
「山ほどある」
戦争。
失ったもの。
守れなかったもの。
取り戻せなかったもの。
数え始めたらきりがない。
丞はそれを口にはしなかった。
汐音も聞かなかった。
二人とも知っているからだ。
聞かなくても。
「でも」
丞が言う。
「一つだけ違う」
「?」
「お前と会えたことは後悔してない」
風が吹く。
汐音は少しだけ目を見開いた。
予想していなかった。
丞はこういうことを言う人ではない。
少なくとも昔は。
だから余計に。
胸が少しだけ苦しくなる。
嬉しくて。
寂しくて。
どうしようもなく。
「誠さん」
声が掠れた。
「なんだ」
「ずるいです」
「何がだ」
「そういうこと急に言うの」
丞は本気で分かっていない顔をする。
汐音は思わず笑った。
そして。
少しだけ勇気を出す。
「私もですよ」
「……」
「後悔してません」
静かな声だった。
「誠さんと会えたこと」
夜風が吹く。
遠くで船の汽笛が聞こえた。
長い時間だった。
二人は生きていた。
そして死んだ。
失ったものもたくさんある。
戻らないものばかりだ。
それでも。
「なあ」
珍しく丞から話しかける。
「はい」
「もし」
少し考える。
言葉を探す。
不器用な人だった。
生前から。
きっと今も。
「もし最初から全部やり直せても」
汐音は黙って聞いている。
「俺はたぶん、お前を選ぶ」
夜が静かになる。
風の音だけが聞こえる。
汐音は俯いた。
魚が体内でゆっくり泳ぐ。
嬉しい時の動きだった。
「……そうですか」
「そうだ」
短い返事。
けれど十分だった。
汐音は少し笑う。
泣きそうな顔で。
でも幸せそうに。
「私もです」
その答えに。
丞は何も言わなかった。
言葉はいらなかった。
二人で夜景を見る。
屋上の風は冷たい。
けれど不思議と寒くなかった。
街の灯りは遠い。
生きていた頃も遠かった。
戻れない。
もう届かない。
それでも。
今こうして隣にいることだけは本物だった。
それで十分だと。
二人とも思っていた。
