自然棟の標本修復室。
閉館後の館内でもここだけは灯りがついていることが多い。
その日もそうだった。
机の上には解体された鳥類の剥製。
その前に座る丞。
針と糸を持った手は慣れたものだった。
破れた箇所を縫い合わせる。
形を整える。
失われたものをできるだけ元の姿に近付ける。
黙々と作業を続けていると、扉が開いた。
「誠さん」
聞き慣れた声だった。
「美代子か」
汐音が入ってくる。
腕には記録簿が抱えられている。
「まだやってたんですか」
「終わりそうだったからな」
「それ、一時間前も聞きました」
「そうか」
「そうです」
丞は返事だけして作業を続ける。
汐音は向かいの椅子に腰掛けた。
しばらくは紙をめくる音と針の動く音だけが続く。
不思議なことに、それは気まずくなかった。
昔からそうだった気がする。
昔がいつなのかはよく分からないけれど。
「誠さん」
「なんだ」
「その子、綺麗になりますか」
汐音が鳥の剥製を見ながら聞いた。
「なる」
即答だった。
「腕は落ちてない」
「そういう意味じゃないです」
「分かってる」
分かっているなら意地悪を言うなと思ったが、汐音は口にしなかった。
代わりに少し笑う。
丞は修復作業が好きだ。
正しく言えば執着している。
壊れたものを戻そうとする。
失われたものを残そうとする。
時々、展示物ではなく別の何かを相手にしているように見えることがあった。
「誠さん」
「なんだ」
「全部は直せませんよ」
針が止まった。
ほんの一瞬だけ。
それからまた動き出す。
「知ってる」
短い返事だった。
けれど汐音は続けた。
「残らないものもあります」
「知ってる」
「忘れることもあります」
「知ってる」
「私も」
今度こそ針が止まった。
修復室が静かになる。
汐音は窓の外を見ていた。
言葉の続きを探すように。
「私も、少しずつ忘れてます」
その声は穏やかだった。
悲しそうではない。
ただ事実を話しているだけだった。
「病院のこととか」
「……」
「好きだった本とか」
「……」
「子供の頃のこととか」
記憶は残る。
だが完全ではない。
学芸員になった時に欠けた部分もある。
長い時間の中で薄れていく部分もある。
展示物と同じだ。
どれだけ保存しても劣化はする。
丞は黙っていた。
汐音も無理に話を続けない。
しばらくして。
「でも」
汐音が言った。
「誠さんのことは覚えてます」
丞が顔を上げた。
汐音は少し笑っていた。
「よかったですね」
「何がだ」
「忘れられてなくて」
「お前な」
呆れた声だった。
けれど怒ってはいない。
汐音は少しだけ楽しそうだった。
珍しいことだった。
修復室に静かな空気が戻る。
やがて丞は針を置いた。
「終わった」
「お疲れ様です」
鳥の剥製は綺麗に修復されていた。
縫い目もほとんど見えない。
まるで最初から壊れていなかったみたいだった。
汐音はそれを見て言う。
「すごいですね」
「仕事だからな」
「それでもです」
丞は返事をしなかった。
褒められるのは苦手だった。
汐音は立ち上がる。
「では、私は戻ります」
「ああ」
扉へ向かう。
そこで足を止めた。
振り返る。
「誠さん」
「なんだ」
「もし私が全部忘れても」
丞が眉をひそめる。
汐音は少しだけ考えてから言った。
「その時は、また教えてください」
修復室に沈黙が落ちる。
しばらくして。
丞は小さく息を吐いた。
「忘れる前提で話すな」
「約束してくれるんですか」
「……何回でも教えてやる」
ぶっきらぼうな声だった。
汐音は少し目を細めた。
満足そうに。
「ありがとうございます」
そう言って部屋を出ていく。
扉が閉まる。
修復室には再び静寂が戻った。
丞は一人になった机の向こうを見る。
さっきまで汐音が座っていた椅子。
空っぽだ。
それなのに。
なぜかまだ誰かがいるような気がした。
「……馬鹿だな」
誰に向けた言葉だったのか。
それは丞自身にも分からなかった。
