自然棟の展示室。
閉館後。
来館者の姿はなく、照明も最低限だけが点いている。
静かな夜だった。
「誠さん」
「なんだ」
「ちょっと付き合ってください」
汐音がそう言ったのは、一日の仕事が終わった後だった。
理由は言わない。
ただ珍しく少しだけそわそわしている。
丞は嫌な予感を覚えた。
だが結局断らない。
いつものことだ。
連れて来られたのは自然棟の一角。
季節展示用の小さなスペースだった。
展示替えの合間で空いているらしい。
そして。
丞は立ち止まった。
「……何だこれは」
白い布。
花。
簡単な装飾。
どう見ても。
どう見てもそれっぽかった。
「結婚式場です」
汐音が言う。
「違うだろ」
「雰囲気です」
「そうか」
雰囲気だった。
いや、雰囲気もかなりそれだった。
丞は額を押さえる。
嫌な予感は当たったらしい。
「美代子」
「はい」
「何を始める気だ」
「結婚式です」
「そうか」
数秒。
「待て」
「待ちません」
即答だった。
汐音は楽しそうである。
珍しく。
本当に珍しく。
少しだけいたずらっぽい顔をしていた。
「誠さん」
「なんだ」
「私たち、生前はちゃんと式を挙げられなかったでしょう」
その言葉に。
丞は黙る。
確かにそうだった。
時代も。
状況も。
そんな余裕のある人生ではなかった。
結婚はした。
だが式らしい式はなかった。
写真も多くは残っていない。
「だから」
汐音は少しだけ照れながら笑う。
「今さらです」
丞はため息を吐いた。
長く。
深く。
だが帰ろうとはしない。
それだけで十分答えは出ていた。
「軍曹と梓は」
「呼んでません」
「珍しいな」
「二人だけがよかったので」
汐音はそう言った。
少しだけ恥ずかしそうに。
少しだけ嬉しそうに。
丞は視線を逸らす。
こういう顔に弱い。
昔から。
たぶん。
「誠さん」
「なんだ」
「逃げますか」
「逃げない」
「そうですか」
汐音は微笑んだ。
それから。
展示用の造花を一本差し出す。
本物ではない。
館内の備品だ。
だが十分だった。
「指輪はありません」
「そうだろうな」
「代わりです」
「雑だな」
「資料館ですから」
意味が分からない。
だが汐音は満足そうだった。
二人は向かい合う。
静かな展示室。
誰もいない。
拍手もない。
神父もいない。
来賓もいない。
ただ。
二人だけ。
「誠さん」
汐音が呼ぶ。
昔から変わらない呼び方で。
「なんだ」
そして丞も答える。
少しだけ昔のように。
「好きです」
汐音は言った。
真っ直ぐに。
何度も言ってきた言葉だ。
それでも今日は少し違う。
「知ってる」
丞が答える。
「はい」
「俺も好きだ」
汐音が笑う。
泣きそうな顔で。
幸せそうな顔で。
「それで十分です」
本当に。
それだけでよかった。
派手な式はいらない。
大勢の祝福もいらない。
今ここで。
隣にいてくれることだけでいい。
汐音は造花を丞に渡した。
丞は少し迷って。
受け取る。
そして。
何となく。
本当に何となく。
汐音の頭の花にそっと触れた。
昔渡した花。
ずっと残り続けている花。
「綺麗だな」
ぽつりと。
言葉が漏れた。
汐音が目を見開く。
「誠さん」
「なんだ」
「今日はずるいです」
「何がだ」
「そういうこと言うの」
丞は少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
「今さらだろう」
「今さらですね」
二人で笑う。
展示室は静かだった。
標本たちが並ぶ場所。
失われたものを残す場所。
その片隅で。
誰にも知られない小さな結婚式が終わる。
拍手はなかった。
祝福の言葉もなかった。
けれど。
帰り道。
並んで歩く二人の足取りは、少しだけ軽かった。
