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あの日の後悔

登場キャラクター
軍曹、梓(あずさ)
関連博物館
愛館市立郷土資料館

 閉館後。

 自然棟の窓には、雨粒が静かに流れていた。

 薄暗い休憩室で、梓は湯気の立つマグカップを両手で包んでいる。

 向かいには軍曹。

 二人ともほとんど口を開かない。

 雨音だけが部屋を満たしていた。

「軍曹。」

 梓がぽつりと呼ぶ。

「何だ。」

「……わたしね。」

 マグカップの縁を指でなぞる。

「最後の日のことだけは、忘れられない。」

 軍曹は黙って聞く。

「朝。」

「お父さん、いつも通り起こしてくれて。」

『朝ご飯できてるぞ。』

 って。

 梓は目を伏せた。

「食べ終わったら。」

「お弁当持たせてくれて。」

 その時の父の姿が、昨日のことのように思い浮かぶ。

 少しくたびれたエプロン。

 急いで結んだネクタイ。

 眠そうなのに笑っていた顔。

「玄関まで見送りに来て。」

『忘れ物ないか。』

『気を付けてな。』

『いってらっしゃい。』

 いつも通りだった。

 本当に。

 いつも通りだった。

 梓は唇を噛む。

「わたしも。」

『いってきます。』

 って返した。

 それだけ。

 それだけだった。

 雨が少し強くなる。

「ありがとうも。」

「ごめんも。」

「何も言わなかった。」

 梓は笑おうとした。

 でも笑えなかった。

「ありがとうって言ったら。」

「きっと、お父さん。」

「『どうした急に。』って笑ったと思う。」

 少し間が空く。

「それでも。」

「言えばよかった。」

 声が震える。

「お弁当、毎日作ってくれてありがとうって。」

「育ててくれてありがとうって。」

「……生まれてきてよかったって。」

 最後の言葉は、消え入りそうだった。

「なんで。」

「なんで、あの日だけ。」

「いつも通り帰ってきます、みたいな顔して家を出ちゃったんだろ。」

 軍曹は何も言わない。

 梓は涙を拭わなかった。

「わたし。」

「ありがとうなんて言ったら。」

「決心が揺らぐ気がしたんだ。」

 静かな告白だった。

「お父さんの顔、見ちゃったら。」

「行けなくなる気がした。」

「だから。」

「何も言わなかった。」

 部屋が静まり返る。

 軍曹は帽子のつばへ静かに手を添えた。

「……そうか。」

 それだけだった。

 慰めもしない。

 否定もしない。

 梓は小さく笑う。

「最低だよね。」

「ありがとうくらい。」

「言えばよかった。」

 軍曹はゆっくりと立ち上がる。

 窓の外を見る。

 しばらく雨を眺めたあと、小さく口を開いた。

「……言葉は。」

 梓が顔を上げる。

「伝えようと思った時には。」

「もう遅いこともある。」

 その声は、梓に向けたものではなかった。

 まるで、自分自身へ言い聞かせているようだった。

「だから。」

 少しだけ間が空く。

「後悔は。」

「消えん。」

 梓は静かに頷く。

「うん。」

「消えない。」

 二人はそれ以上話さなかった。

 雨は降り続ける。

 あの日も、こんなふうに静かな朝だったのだろうか。

 梓にはもう思い出せなかった。

 思い出せるのは。

 玄関で笑っていた父の顔と、

『いってらっしゃい。』

 という声だけだった。