夕張炭鉱資料館の朝は静かだった。
東雲は入口の鍵を開けると、いつものように館内を歩く。
展示室の照明を点ける。
ガラスケースを拭く。
石炭の展示を見回り、少し曲がった説明札をまっすぐに直す。
十年以上。
毎朝変わらず続けてきた仕事だった。
静かな館内を歩いていると、不思議と心も落ち着く。
誰もいない。
それが当たり前だった。
歴史展示室へ入った、その時。
「……あ。」
思わず声が漏れた。
展示ケースの前に、見知らぬ青年が立っていた。
石炭を覗き込み、感心したように頷いている。
東雲は立ち止まる。
侵入者ではない。
敵でもない。
理由は分からない。
それでも見た瞬間に理解した。
学芸員だ。
青年が振り返る。
「あ、おはよう。」
のんびりと笑う。
その笑顔につられるように、東雲も返した。
「……おはよう。」
青年はほっと肩を下ろした。
「よかったぁ。」
「誰もいなかったらどうしようかと思ってた。」
東雲は苦笑する。
「俺もびっくりした。」
「昨日まで誰もいなかったからさ。」
「あはは。」
「だよねぇ。」
青年はゆっくり歩み寄ってくる。
「僕、岸信っていうみたい。」
「東雲。」
「よろしくね。」
「よろしく。」
そこで二人とも黙ってしまう。
東雲は少し困った。
人と話すことは嫌いじゃない。
でも。
同僚と話したことがない。
十年以上、一人だった。
何を話せばいいんだろう。
「……。」
「あ。」
東雲は小さく笑った。
「とりあえず、館内回るか。」
「うん。」
「見たい。」
ノブは嬉しそうについてくる。
展示を一つ見るたびに立ち止まる。
「これ、本物?」
「うん。」
「昔使ってた道具。」
「へぇ……。」
目を細めて眺める。
また少し歩く。
「これも?」
「採炭機。」
「大きいね。」
「近くで見ると迫力あるだろ。」
「あるある。」
ノブは何度も頷く。
「面白いなぁ。」
その反応が嬉しくて、東雲はつい説明が増えた。
採炭の話。
炭層の話。
展示方法の話。
気付けば普段の何倍も喋っている。
一巡すると、ノブが笑った。
「東雲くん。」
「展示、本当に好きなんだねぇ。」
東雲は少し照れくさそうに笑う。
「まぁ。」
「長いから。」
「十年以上いるし。」
「そうなんだ。」
ノブはゆっくり頷く。
「ずっと一人?」
「うん。」
「だから。」
東雲は頭を掻いた。
「こういうの、勝手が分かんなくて。」
「こういうの?」
「同僚。」
ノブはにへへと笑う。
「僕も初めてだから。」
「一緒だねぇ。」
その言い方が妙におかしくて、東雲も笑った。
「そうだな。」
昼休みになった。
東雲は鞄を開き、
「あ、やべ。」
と呟く。
「どうしたの?」
「弁当、一個しかねえ。」
「あぁ。」
ノブは納得したように笑った。
「昨日まで一人だったもんね。」
「そうなんだけどさ。」
東雲は困ったように弁当箱を見る。
「腹減ってるだろ。」
「半分食べる?」
「いいの?」
「うん。」
「俺、一人だとそんな食わないし。」
「じゃあ。」
ノブは嬉しそうに笑う。
「いただこうかな。」
二人で弁当を分け合う。
静かな休憩室。
誰かと昼を食べるのは久しぶりだった。
食べ終わって、お茶を飲んでいると、
ノブが湯のみを両手で包んだまま言った。
「東雲くん。」
「ん?」
「一つお願いしてもいい?」
「もちろん。」
「東雲くんって呼ぶより。」
ノブは少し照れ笑いを浮かべる。
「シノって呼んでもいい?」
「その方が。」
「近くなれる気がして。」
東雲は少し驚いた。
十年以上。
そんなふうに呼ばれたことはない。
でも。
不思議と嫌じゃなかった。
「いいよ。」
自然に言葉が出る。
「その方が呼びやすいなら。」
ノブの顔がぱっと明るくなる。
「ありがとう、シノ。」
初めて呼ばれたその二文字は、思ったよりも耳に馴染んだ。
東雲は少し照れながら笑う。
「じゃあ俺も。」
「岸信って呼ぶより。」
「ノブの方が呼びやすいな。」
「そう呼んでいいか?」
ノブは何度も頷く。
「もちろん。」
「その方が嬉しい。」
「じゃあ。」
東雲は笑った。
「よろしくな、ノブ。」
ノブも笑う。
「よろしくね、シノ。」
翌朝。
東雲は台所で弁当を作っていた。
一つ詰め終えて、
もう一つの弁当箱へ自然に卵焼きを入れる。
そこで手が止まった。
「……あ。」
思わず笑う。
誰に頼まれたわけでもない。
でももう、自分の朝には二人分の弁当がある。
資料館の扉を開ける。
展示室の向こうから、のんびりした声が聞こえた。
「おはよう、シノ。」
東雲は少し笑って返す。
「おはよう、ノブ。」
十年以上続いた一人の朝は、
その日から、二人の朝になった。
